2016年11月20日日曜日

●2016年11月20日(日)山形県寒河江市汚水デザインマンホールのふた

 寒河江市は、山形県のほぼ中央に位置し、山形市から20キロメートル圏内にあります。西村山地域の中核として発展し、市内を庄内地方と県都・山形市を結ぶ国道112号が走り、また、山形県の中央を横断し、庄内地方と宮城県とを結ぶ山形自動車道には、寒河江インターチェンジと寒河江サービスエリアスマートインターチェンジでアクセスしており、県内高速交通網の要衝となっております。
 山形県の母なる川・最上川と清流・寒河江川が、市街地を包むように流れ、月山と葉山、遠くに蔵王、朝日連峰を望み、四季の変化に富んだ美しい景観と豊かな自然環境に恵まれ、千年以上もの間育まれてきた歴史や文化を有しております。

以上寒河江市HPより引用

寒河江市の地名の由来は以下のように諸説あるようです。
# 平安時代に京都藤原家の荘園として開かれた。相模の国寒川(さむかわ)からの移住者が寒河江周辺を郷里の寒川周辺と似ていたため「寒川」と呼び、河川が増水して入江になった名残で「寒河江」となった。

# これは難読地名の一つで、山形市の北西約15kmにあるサクランボで有名な町ですね。この寒河江という地名は単純に考えれば「寒い川のほとり」ということなのでしょうが。そもそも「サガ」は朝鮮由来の名で、「相模」「寒川」あたりに由来する地名と言われています。

※ 以上は、山形新聞社刊 やまがた地名伝説によるものだが、一方、「地名の秘密 そんな歴史があったのか」武光誠著では以下のように述べている。

# 鎌倉時代の始めに大江広元がこの地の地頭に任命され、彼が「寒河江」と名付けた。「さがえ」と言う地名は「さかえ」がなまったものと言われる。集落と集落を分ける川を「境川」と言うが、寒河江川は以前は境川だったと推測される。源頼朝に気にいられた学者だった大江広元は自分の領地に優雅な名前をつけようとした。その川は、京や鎌倉の川よりもはるかに寒かった。従って、「寒い河」に自分の名字の「江」の一字をつけて「寒河江」とした。広元の子孫でこの地を本拠地とした一族は「寒河江」を名乗ったが後に最上義光に滅ぼされる。また、子孫のうち安芸に移り住んだ一族は毛利を名乗った。

# 山形県の地名辞典(平凡社)によると、寒河江の地名は、関東地方の寒川農民が移民として入り、定住するようになり、その場所が入江が多かったため、はじめは「寒川の江」と呼び、後に「さがえ」と呼ぶようになった。【日本の中の朝鮮文化(12)陸奥・出羽ほか 金達寿 講談社】

# 延喜式の佐芸(さき)から転訛した。

# 毎春河川が雪解け水で満水となり、一面が大河のようになる所から。

※ だいぶ違うんだけどどっちが本当なのか?昔の話ってそういうもんなんだろうなぁ。

# 「さか(傾斜地)」+「え(川)」から転じたもので、「傾斜地の川」のこと。また、「さが(険しい地形)」+「え(川)」で「険しい谷を流れる川」のこと。【市町村名語源辞典 溝手理太郎 東京堂出版】
※ 寒河江川が先なのか?それとも寒河江の地名が先なのか?

# 「さっかい(箸)」など、アイヌ語の残存地名というが、発音があわない。願望地名の「栄」の転か。古地図には「さか江」と濁っていない。また、寒河江川は古代の最上郡と村山郡をわける境川の意味にもとれる。【JR・第三セクター 全駅ルーツ事典 村石利夫 東京堂出版】

以上http://folklore2006.jp/timei200/0003.htmより引用

マンホールのふたの真中には、寒河江市の木であり特産物のさくらんぼ、周りには寒河江市の花であるツツジがデザインされています。



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