2016年11月27日日曜日

●2016年11月27日(日)福島県県章原町工業用水道排泥室マンホールのふた
原町は福島県の太平洋岸北部にあった市です。
平成の大合併後は、南相馬市の中核をなす街となっています。
この工業用水道の名前は現在はなく、相馬工業用水道の一部となっているようです。


2016年11月20日日曜日

●2016年11月20日(日)山形県寒河江市汚水デザインマンホールのふた

 寒河江市は、山形県のほぼ中央に位置し、山形市から20キロメートル圏内にあります。西村山地域の中核として発展し、市内を庄内地方と県都・山形市を結ぶ国道112号が走り、また、山形県の中央を横断し、庄内地方と宮城県とを結ぶ山形自動車道には、寒河江インターチェンジと寒河江サービスエリアスマートインターチェンジでアクセスしており、県内高速交通網の要衝となっております。
 山形県の母なる川・最上川と清流・寒河江川が、市街地を包むように流れ、月山と葉山、遠くに蔵王、朝日連峰を望み、四季の変化に富んだ美しい景観と豊かな自然環境に恵まれ、千年以上もの間育まれてきた歴史や文化を有しております。

以上寒河江市HPより引用

寒河江市の地名の由来は以下のように諸説あるようです。
# 平安時代に京都藤原家の荘園として開かれた。相模の国寒川(さむかわ)からの移住者が寒河江周辺を郷里の寒川周辺と似ていたため「寒川」と呼び、河川が増水して入江になった名残で「寒河江」となった。

# これは難読地名の一つで、山形市の北西約15kmにあるサクランボで有名な町ですね。この寒河江という地名は単純に考えれば「寒い川のほとり」ということなのでしょうが。そもそも「サガ」は朝鮮由来の名で、「相模」「寒川」あたりに由来する地名と言われています。

※ 以上は、山形新聞社刊 やまがた地名伝説によるものだが、一方、「地名の秘密 そんな歴史があったのか」武光誠著では以下のように述べている。

# 鎌倉時代の始めに大江広元がこの地の地頭に任命され、彼が「寒河江」と名付けた。「さがえ」と言う地名は「さかえ」がなまったものと言われる。集落と集落を分ける川を「境川」と言うが、寒河江川は以前は境川だったと推測される。源頼朝に気にいられた学者だった大江広元は自分の領地に優雅な名前をつけようとした。その川は、京や鎌倉の川よりもはるかに寒かった。従って、「寒い河」に自分の名字の「江」の一字をつけて「寒河江」とした。広元の子孫でこの地を本拠地とした一族は「寒河江」を名乗ったが後に最上義光に滅ぼされる。また、子孫のうち安芸に移り住んだ一族は毛利を名乗った。

# 山形県の地名辞典(平凡社)によると、寒河江の地名は、関東地方の寒川農民が移民として入り、定住するようになり、その場所が入江が多かったため、はじめは「寒川の江」と呼び、後に「さがえ」と呼ぶようになった。【日本の中の朝鮮文化(12)陸奥・出羽ほか 金達寿 講談社】

# 延喜式の佐芸(さき)から転訛した。

# 毎春河川が雪解け水で満水となり、一面が大河のようになる所から。

※ だいぶ違うんだけどどっちが本当なのか?昔の話ってそういうもんなんだろうなぁ。

# 「さか(傾斜地)」+「え(川)」から転じたもので、「傾斜地の川」のこと。また、「さが(険しい地形)」+「え(川)」で「険しい谷を流れる川」のこと。【市町村名語源辞典 溝手理太郎 東京堂出版】
※ 寒河江川が先なのか?それとも寒河江の地名が先なのか?

# 「さっかい(箸)」など、アイヌ語の残存地名というが、発音があわない。願望地名の「栄」の転か。古地図には「さか江」と濁っていない。また、寒河江川は古代の最上郡と村山郡をわける境川の意味にもとれる。【JR・第三セクター 全駅ルーツ事典 村石利夫 東京堂出版】

以上http://folklore2006.jp/timei200/0003.htmより引用

マンホールのふたの真中には、寒河江市の木であり特産物のさくらんぼ、周りには寒河江市の花であるツツジがデザインされています。



2016年11月13日日曜日


●2016年11月13日(日)
秋田県秋田市市章雨水デザインマンホールのふた
秋田県の県庁所在地で人口およそ31.5万人の中核市です。
秋田の由来は、日本で初めて書かれた歴史の本「日本書紀」に、秋田の地名が「齶田(あぎた)」と出てきます。
7世紀の中ごろ阿部比羅夫が水軍を率いてやってきたころのことです。
その後、まもなくアギタは「飽田」に書きかえられます。
「飽田」は、低湿地を意味する悪土などからきた悪田から生まれた地名とも言われています。
やがて天平時代には、「秋田」と書かれるようになりました。
マンホールのふたの真中には「下水」の文字の中に秋田市の市章がデザインされています。
秋田市の市章は昭和3年6月に制定。的に「矢留」の形と、秋田市の「田」の字をあらわす。
「矢留」とは旧秋田藩主佐竹氏の居城「久保田」の別名。(秋田市HPより引用)
周りには東北三大祭りの「竿灯」がデザインされています。
マンホールのふたの右側の竿灯には「秋田市の市章」、左側の竿灯には秋田を治めた「佐竹氏の家紋」デザインされています。




2016年11月6日日曜日

●2016年11月6日(日)
宮城県刈田郡蔵王町町章汚水マンホールのふた

蔵王町(ざおうまち)は昭和30年、宮村と円田村が合併して誕生しました。東北の霊峰蔵王連峰の東麓、宮城県の南西部に位置し、町域の約6割が山林・原野で占められています。町の中央を松川が貫流し美しい渓谷の景観を作り出しています。蔵王連峰に連なる高原地帯には貴重な野鳥などが生息し、自然の宝庫となっています。


昭和30年4月1日、町制施行により宮村、円田村が合併し、蔵王連峰の一部を有していることから、蔵王町(ざおうまち)という町名になりました。

蔵王町の町章は「ざおう」の「ざ」を図案化したもので、蔵王連峰を象徴する山の形と、わが町特産のももの形が配されており、蔵王町の限りない飛躍と住民の融和を表わしています。この町章は昭和34年3月に一般から公募し、制定したものです。

(以上蔵王町HPより引用)